以下は、2004年3月16日に提出した原告岡田啓子の陳述書である。固有名詞は必要に応じてイニシャルとした。
陳述書
1. 私は、亡岡田悦子(以下、「亡母」といいます。」)の娘です。亡母の外来通院中は、平成11年2月16日を除いて、ずっと亡母に付き添っていました。亡母は病院内は車いすを利用していましたので、私は診察室の中も付き添っていました。
私たち家族とJ医院とのかかわりは約20年の歴史があります。そもそもは、父の旧制高校時代の寮の同室者がJ医院の整形外科の教授をしていたことからです。その教授の紹介によって適切と考えられる医師のもとに通い、その間大過なくきましたので、J医院は適切な病院との印象をもっていました。
しかし、亡母に起こった出来事を通して、私たちの信頼は裏切られ、私たちの考えが甘過ぎたことが分かりました。
2. 平成10年12月15日
午前中脳外科外来の際、亡母は「動くと息切れがし、脈が速いです。」と話したところ、S教授(当時)より「心臓の病気は見つけにくいから、循環器内科に行きなさい」と言われ、循環器内科のS医師を紹介され、受診することにしました。そのため午後からのリハビリをキャンセル、胸部X線写真、心電図及び血液検査を脳外科で予約し、行いました。
循環器内科の新患は再診の人が全員終わってからで、呼ばれたのは午後4時を過ぎていました。
胸部X線写真、心電図検査については、説明がありませんでしたので、特に問題はないのだと思いました。既に服用していたカルシウム拮抗薬(エマベリンL)をβ遮断薬(アーチスト)に変更するように言われ、次回の予約を平成11年1月5日にしました。
S医師は陳述書に、「カルシウム拮抗薬(エマベリンL)の処方を受けたあとから動悸などがでるようになったとの話でした。」と書いていますが、亡母はこのような話をしていませんしエマベリンLの処方中、ずっと動悸が出ていた事実はなく、むしろ動悸が出ていなかったことの方が長いのです。
3. 平成10年12月26日(土曜)
亡母は、午後脳外科S教授(当時)に電話をし、救急外来を受診しました。
下肢の脱力感が強くなったと話し、MRI検査を行いましたが、結果は以前と変わりませんでした。
亡母は、脈が速いとも訴え、顔色も悪いので血液検査を行い、脳外科S教授が循環器内科T医師を呼び、T医師の診察を受けました。動悸、息切れを感じると話しています。また、心電図、心エコー(ポータブル)検査を行いました。亡母は、診察中ずっとベットに寝ていました。
カルテに下肢むくみ増強との記載があります。これは循環器内科T医師が触診して分かったことです。
血液検査でGOT、GPTの上昇があり、薬をアーチスト(β遮断薬)からテノーミン(β遮断薬)へ変更、精神安定剤ホリゾンが出ました。薬をもらって帰ろうとしたところ、T医師は「気になるので、もう一度部屋に来てほしい」と言い、再度心エコー検査を行いましたが、何の説明もありませんでした。しかしT医師は心エコー検査結果についてかなり気にしているなと、私は思いました。
亡母と私は帰宅しました。
S医師は陳述書に、心エコー検査について「この段階で右心室の拡大はなかったと考えられます」と書いていますが、12月26日の心エコー検査の記録(写真及びビデオテープ)が残っていないので、確かめることは出来ません。
4. 平成10年12月31日、亡母は、ホテルへ行く途中の駅の階段で歩けなくなりました。
同年12月31日〜平成11年1月3日は、亡母は気分が悪く、1月3日に再び下肢の脱力感が生じるといい、同日脳外科S教授(当時)に電話をし、1月4日、急きょ脳外科の外来を受診することにしました。
5. 平成11年1月4日
脳外科外来で、亡母は朝起きた時気分が悪い、心臓がドキドキする、頭がフラフラすると話しました。そして血液検査を行いなした。
当日脳外科の診察で、亡母の手の動きが以前より良くなっていることに、亡母も私も驚きました。リハビリのせいと思うと同時に、亡母が具合が悪いと訴えるのは、循環器内科で処方されたβ遮断薬のせいだと、亡母と私は考えるようになりました。なお、今まで帰宅する時のみタクシーを利用していましたが、この日から往復タクシーを利用することにしました。
6. 平成11年1月5日
循環器内科外来で、S医師は、前日に行った血液検査のデータにより、テノーミン(β遮断薬)を中止し、エマベリンLを服用するように言いました。
S医師は、亡母が救急外来を受診したことも、昨日急きょ予定外の外来受診したことも、全く気にとめた様子はありませんでした。
7. 平成11年1月19日
循環器内科外来で、S医師は、亡母の脈が速くなっていたことに対し、「エマベリンだと心拍数が上昇する」と言い、薬をテノーミン(β遮断薬)に変更しました。
亡母は、具合が悪くなるのはβ遮断薬のせいだと思っていましたので、薬の変更にいやな顔をしていたのですが、S医師は「薬に慣れてほしい」と言いました。この時、亡母も私も、S医師はβ遮断薬に固執していると強く感じました。
S医師は、頻脈の原因を究明することは一度もありませんでした。
8. 平成11年1月21日
亡母は「やはり具合が悪くなる」と言ったので、私が「薬が変えてもらいに病院へ行く?」と尋ねると、亡母は、「来週火曜日にリハビリで行くのでその時でいい」と言いました。薬は20日に服用しただけで、その後はやめていました。
9. 平成11年1月26日
リハビリの問診の際脳外科で、亡母は下肢の脱力感、しびれ感、吐き気の症状があると話し、「薬(β遮断薬)に慣れるまで体がもたない」と訴え、S医師への薬の変更の依頼の手紙を書いてもらいました。隣の部屋からS教授(当時が来られて、「岡田さんがこれほど言うことは今までない」と言いました。
循環器内科へ行った時、S医師は「我慢できないですか」と言ってました。私は、S医師は皮肉を言っていると思いましたが、薬の変更にほっとしました。
S医師は薬をヘルベッサーR(カルシウム拮抗薬)に変更しましたが、この日は肝機能ための血液検査さえ行いませんでした。
S医師は陳述書に、「脳外科から診察の依頼があった」と書いていますが、これは間違いです。カルテにある依頼書にも「処方の変更依頼」とちゃんと書いてあります。
10. 平成11年2月16日
私は風邪をひき、亡母の付き添いを父に代わってもらいました。